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神戸地方裁判所 平成元年(モ)1003号 判決 1990年1月26日

債権者

石堂正彦

右訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

高田良爾

藤原精吾

佐藤克昭

債務者

朝日火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

越智一男

右訴訟代理人弁護士

和田良一

美勢晃一

狩野祐光

太田恒久

河本毅

山本孝宏

主文

当裁判所が昭和六一年(ヨ)第三八四号仮処分申請事件について同年一〇月二日にした仮処分決定(以下「原決定」という。)を、債権者に保証を立てさせないで、次のとおり変更する。

一  債権者が債務者に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二  債務者は、債権者に対し、昭和六一年八月一一日から平成四年八月一一日または本案の第一審判決言渡の日のいずれか早い日まで毎月二〇日限り月額金三五万円の割合による金員を仮に支払え。

三  債権者のその余の申請を却下する。

四  訴訟費用は債務者の負担とする。

五  この判決は仮に執行することができる。

事実

一  申立

1  債権者

原決定を認可する。

訴訟費用は債務者の負担とする。

との判決を求める。

2  債務者

原決定を取消す。

債権者の本件仮処分申請を却下する。

訴訟費用は債権者の負担とする。

との判決と仮執行の宣言を求める。

二  主張

1  債権者

(一)  申請理由

(1) 当事者

イ 債務者

債務者は、昭和二六年二月二八日、損害保険事業を営むことを目的として設立された株式会社である。

戦後の鉄道荷物の運送事故の多発に対処するため、昭二四年一〇月に損害保険会社一九社による運送保険の共同引受機構(シンジケート、幹事会社は当時の興亜火災海上保険株式会社―以下「興亜火災」という。)として鉄道保険部が設立され、債務者は、昭和四〇年二月一日、これを合体(以下「本件合体」という。)した。

ロ 債権者

債権者は、昭和四年八月一一日生れで、昭和二八年七月鉄道保険部に入社し、本件合体により債務者会社の従業員たる地位を取得した。

(2) 給与月額

債権者の昭和六一年八月一一日直前の同年七月分の給与は、金四五万五二四六円であった。

(3) 債務者の債権者に対する取扱

債務者は、昭和六一年七月二八日、債権者に対し、「貴殿は昭和六一年八月一一日をもって満五七才となられますので、同日をもって定年退職とします。」と解雇の告知をなし、債権者が満五七才の誕生日である同月一一日を経過して、債権者は定年退職により退職したものと取扱い、債権者の就労を拒否し、賃金の支払をしない。

(4) 保全の必要性

債権者は、債務者から得る賃金を唯一の収入源とする労働者である。

債権者は、妻と母を扶養しながら、債務者会社の社宅に居住している。

従って、債権者は、右解雇により収入の途を失うときは、その生活が成り立たず、家族の生活にも重大な影響を受け、債権者は、とり返しのつかない損害を被るにいたる。

よって、債権者は、本件仮処分申請に及んだ。

(5) 原決定の発令

当裁判所は、昭和六一年一〇月二日、次のとおり、仮処分決定を発した。

「債権者が債務者に対し、労働契約上の権利を有することを仮に定める。

債務者は、債権者に対し、昭和六一年八月一一日から本案判決確定に至るまで毎月二〇日限り金四五万五二四六円を仮に支払え。

申請費用は債務者の負担とする。」

(6) 結論

よって、債権者は、債務者に対し、本件仮処分申請を認容した原決定は正当であるので、その認可の判決を求める。

(二)  抗弁に対する認否

(1) 本件労働協約及び本件就業規則について

抗弁事実(1)のイないしニは認めるが、ホは争う。

(2) 特別事情について

抗弁事実(2)ロは争う。

(3) 保全の必要性の消滅について

抗弁事実(3)は争う。

(三)  再抗弁

(1) 一般的拘束力排除の合意

イ 本件労働協約には、「組合が本件労働協約を締結しても、定年制の切下げ(五七才定年制)について個人が同意しなければ、その個人については、従来どおりの権利(鉄道保険部出身の従業員の場合には六五才定年制)が残る」との特約(以下「本件特約」という。)が付され、これにより、本件労働契約の当事者間において、本件労働協約の一般的拘束力を排除する旨の合意がなされていた。

ロ 本件労働協約は、右特約付のものとして債権者ら組合員にその効力が及んでいたのであり、右特約は、個人の同意を停止条件とする趣旨であるところ、債権者は、定年制の変更に同意せず、自らの権利を留保する旨の意思表示をしたのであるから、右停止条件は成就せず、結局、本件労働協約の効力は債権者に及ばない。

ハ そこで、労働組合法一六条により、本件五七才定年制に違反する労働契約は無効となり、債権者は、六五才定年制上の権利を有している。

(2) 本件就業規則の無効

イ 鉄道保険部当時の労働契約

(イ) 債権者は、昭和二八年七月鉄道保険部に雇用されたが、鉄道保険部は、昭和三二年一月一日就業規則を制定し、定年制につき、「従業員の停年は満六三才とする。但し、会社において必要と認めたときは二年間延長することがある。」(三八条)と規定した。

(ロ) 債権者ら従業員で組織する全日本損害保険労働組合鉄道保険支部(以下「旧鉄道保険支部」という。)は、昭和三七年一一月一日、鉄道保険部との間に、労働協約(以下「旧鉄道保険支部労働協約」という。)を締結し、定年制につき、「従業員の停年は満六三才とし、当該従業員が満六三才に達した翌年度の六月末日までとする。但し、会社(鉄道保険部)が必要と認めたときは二年間延長することができる。」(二三条)の規定が設けられた。

(ハ) 右の就業規則の制定及び労働協約の締結により、定年制に関する規定、特に退職の時期を明確にした旧鉄道保険支部労働協約の規定は、そのまま債権者と鉄道保険部との労働契約の内容をなすに至った。

ロ 債務者会社による労働契約の承継等

(イ) 鉄道保険部は、昭和四〇年一月二七日、債務者会社との間に、「合体に関する覚書」を作成して、同年二月一日、債務者と合体した(実質的には合併であるが、鉄道保険部が法人格を有していなかったことから「合体」という用語が用いられ、鉄道保険部従業員がいったん鉄道保険部を退職し、その全員が債務者会社に雇用されるという形式がとられた。)ところ、右覚書によれば、「合体の際、一九社より支給を受ける退職金は合体後従業員が退職する際に、鉄道保険部と朝日火災(債務者)の勤続年数を通算して退職金を支給することを条件として、全員これをそのまま朝日火災に預託する」と合意されている。

(ロ) 鉄道保険部は、合体直前の同年一月二七日、旧鉄道保険支部との間に、既存の旧鉄道保険支部労働協約を遵守するとともに、定年制及び退職金制度を現行どおりとするとの内容の労働協約(「合体に関する協定書」及び「同附属覚書」)を締結した。

(ハ) 一方、債務者は、右労働協約の成立前である昭和三九年一一月一三日に、当時の全日本損害保険労働組合朝日火災支部との間に、<1>合体に際して鉄道保険部従業員全員を受け入れる、<2>鉄道保険部が旧鉄道保険支部と約束したことは尊重することを内容とする労働協約(「鉄道保険部との合体にともなう協定」)を締結した。

(ニ) 以上のとおり、債務者会社は、鉄道保険部との合体により、前記六三才定年制を含む債権者ら鉄道保険部従業員の労働契約関係をそのまま包括的に承継し、あるいは、債権者らの鉄道保険部における労働契約の内容をそのまま取り込んで、新たに債権者らとの間に、前記六三才定年制等を内容とする労働契約を締結したものである。

ハ 労使慣行の成立

(イ) 本件合体後、債務者会社の鉄道保険部出身従業員のうち満六三才まで勤務した者は、山川達夫、朝田蔀、丸谷巻枝、水本毅の四名であり、この四名は、全員引続き満六五才まで勤務を続け、満六五才に達した翌年度の六月末日に定年退職し、退職金もこの時に受領した。

すなわち、本件合体後、債務者会社では、前記鉄道保険部の就業規則、労働協約の定年制に関する規定中「会社が必要と認めたときは二年間延長することができる。」との部分が自動延長として運用されてきた。

(ロ) しかも、合体後の労働組合である全日本損害保険労働組合朝日火災支部(以下「訴外組合」という。)は、右の「会社が必要と認めたときは二年間(定年を)延長することができる。」との規定については、過去の斗いの中で、「本人の申出があれば認めるという労使慣行を築いてきた。従って、実質的には六五才定年である。」と確認しており、債務者もまたこの慣行の存在を認めていた。

(ハ) このように、合体後の債務者会社では、鉄道保険部出身従業員について慣行による満六五才定年制が成立していたのであって、債権者と債務者間の労働契約にも、定年の関係では、本人の申出があれば満六五才まで従業員の地位を有するとの内容が含まれていた。

ニ 結論

このように、債権者は、鉄道保険部当時の労働条件である満六五才定年制を本件合体により承継しているのであるから、本件就業規則により債務者がこれを満五七才定年制に変更することは、債権者の労働条件を不利益に変更することになるので、本件就業規則は無効である。

(四)  再々抗弁に対する認否

(1) 本件就業規則の合理性について

イ 再々抗弁事実(1)は否認する。

ロ 本件就業規則の変更は、次のとおり著しく不合理であるから、債権者にその効力は及ばない。

(イ) 債権者と債務者会社間の労働契約によれば、債務者は、満六五才に達する日の翌年度の六月末日まで勤務することができるから、昭和六一年九月以降退職するまでの間の債権者の得べかりし賃金総額は、今後全くベースアップや昇給がないと仮定しても約四八二三万円となる。

従って、債権者は、本件就業規則の変更によって、少なくとも同額の損害を被ることとなる。

(ロ) 従業員が定年制に関する規定によって享受する利益の程度は、その従業員の年齢によって異なる。入社後間もない若い従業員にとって、定年退職ははるか将来のことであり、定年時の労働契約上の権利は将来の抽象的な権利に過ぎないが、債権者にとっては、戦後の混乱期から働き続けたのちの定年を目前にして、定年制や退職金の定めは現実化している利益である。しかも、それらは働き続けた生涯の労働の結晶として今目前にある。

従って、本件就業規則の変更は、債権者の有する右利益をその意思とはかかわりなく奪い去るものであるから、債権者の被る不利益は極めて大きい。

(ハ) 債務者は、昭和五二年度において、約二七一億円の正味収入保険料をあげ、これから正味保険金約一二四億円、正味事業費約一一七億円を控除した正味営業収支残が約三〇億円となった。さらに、同年度において、資産運用による利益配当金収入約二一億円と積立保険料約九億円を得、この年度の決算の結果、諸税金約五億円を控除して約五五億円が内部留保された。

そして、債務者は、その後も年々総資産を一貫してふやすことのできる収益をあげてきた。

従って、債務者は、昭和五二年当時、経営危機にあったということはできず、定年制や退職金制度を変更しなければ企業の存立が危ぶまれるような状況にはなかったのである。

(ニ) 本件定年制の実施(退職金制度の変更を含む。)により債権者に支払われる代償金は、全従業員一律の平均一二万円と鉄道保険部従業員加算分として三〇万円の計四二万円が支給されるにすぎず、この代償金をもってしては、到底債権者の被る不利益を償うことはできない。

従って、右代償措置は全く不合理なものである。

さらに、本件労働協約締結当時の鉄道保険部出身従業員は七一名であって、そのうち満五〇才以上の者は二二名にすぎなかったから、債務者会社にとっては、定年制を変更することによって不利益を被る度合いが特に大きい一定年令以上の従業員の既得権を補償することは容易であり、その経過措置をとることに要する経済的負担も軽微であった。

(ホ) 債務者の五七才定年制が、一般社会の定年制の定めの状況からみて、労働者に有利なものであるかどうかを比較するのは意味がない。

敢えて、一般社会との比較をいうのであれば、右定年制の変更は、労働条件の切下げ、すなわち労働者の既得権の引下げであって、現今の社会の定年制延長の一般的流れに逆行する措置としかいえない。

(ヘ) 債務者は、昭和五四年頃以降経営の合理化を進めるため、就中人件費節約のための定年制の引下げや退職金の切下げを実施すべく訴外組合に大規模な支配介入を行なった結果、本件労働協約締結の当事者であった訴外組合執行部は、すでに右支配介入によって変質し、労働組合の実体を失ない、会社の合理化に協力する機関となっていた。

従って、かかる訴外組合と定年制及び退職金制度の変更について協定したということをもって、その合理性を裏付けることはできない。

(ト) 本件定年制の実施について、債権者と同じような年齢層の他の鉄道保険部出身の従業員が不同意の意思を表明しなかったのは、労働組合さえも変質する程の強力な支配介入の中で勇気を出して不同意といえなかっただけであり、このような他の従業員の対応をもって、本件定年制の実施に合理性があるということはできない。

(2) 権利濫用について

再々抗弁事実(2)は否認する。

2  債務者

(一)  申請理由に対する認否

(1) 当事者について

申請理由(1)は認める。

(2) 給与月額について

申請理由(2)は認める。

(3) 債務者の債権者に対する取扱について

申請理由(3)は認める。

(4) 保全の必要性について

申請理由(4)のうち、債権者が妻とともに債務者会社の社宅に居住していることは認めるが、その余は争う。

(5) 原決定の発令について

申請理由(5)は認める。

(6) 結論について

申請理由(6)は争う。

(二)  抗弁

(1) 定年制に関する労働協約の締結及び就業規則の改訂

イ 債務者は、昭和五八年七月一一日、合体後の労働組合である訴外組合との間に、定年を同年四月一日より満五七才の誕生日とする旨の労働協約(以下「本件労働協約」という。)を締結した。

ロ 債務者は、本件労働協約の締結に伴ない、同年七月一一日、職員就業規則の定年に関する部分(五五条)を、同年四月一日より職員は満五七才をもって定年とする。」(以下改訂後の就業規則を「本件就業規則」という。)と改訂した。

ハ 債権者は、昭和五八年以前から、訴外組合の組合員である。

ニ 債権者は、昭和六一年八月一一日に満五七才に達した。

ホ 従って、債権者は、同日定年により債務者会社の従業員たる地位を喪失した。

(2) 特別事情の存在

イ 本件定年制度改訂を争って高田二郎が提訴した福岡地裁小倉支部昭和五八年(ワ)第四六五号地位確認等請求事件につき、平成元年五月三〇日債務者の主張を容れて高田の請求を棄却する旨の判決(以下「高田裁判」という。)が言渡された。

ロ ところが、右判決言渡後に債務者会社を定年退職した者にとっては、原決定に基づく債権者の地位保全及び賃金仮払は、業務に従事せずに高額の給付を受ける点において法的正義を逸脱し、不公平感を伴ない、ひいては債務者会社従業員全体の士気に影響し、債務者は、異常の損害を被っている。

従って、原決定は、かかる特別事情により取消されるべきである。

(3) 保全の必要性の消滅

債権者は、平成元年八月一一日満六〇才に達し、月額約二〇万円の厚生年金受給資格を取得した。

また、債権者の妻も、昭和四年三月二五日生れで、すでに満六〇才に達し、月額数万円の国民年金受給資格を取得した。

従って、債権者の本件仮処分申請につき、保全の必要性が消滅した。

(三)  再抗弁に対する認否

(1) 一般的拘束力排除の合意について

再抗弁事実(1)は否認する。

(2) 本件就業規則の無効について

イ 鉄道保険部時代の労働契約について

(イ) 再抗弁事実(2)イ(イ)は否認する。

(ロ) 同(2)イ(ロ)は認める。

(ハ) 同(2)イ(イ)は否認する。

ロ 労働契約の承継等について

(イ) 再抗弁事実(2)ロ(イ)のうち、鉄道保険部と債務者との間に昭和四〇年一月二七日「合体に関する覚書」が作成されたこと、鉄道保険部と債務者とが同年二月一日に合体したことは認めるが、その余は否認する。

(ロ) 同(2)ロ(ロ)ないし(ニ)は否認する。

ハ 労使慣行の成立について

再抗弁事実(2)ハのうち、鉄道保険部出身従業員の朝田蔀、丸谷巻枝、水本毅が満六五才で退職したことは認めるが、その余は否認する。

ニ 結論について

再抗弁事実(2)ニは争う。

(四)  再々抗弁

(1) 本件就業規則の合理性

仮に本件就業規則の定める五七才定年制が債権者の労働条件を不利益に変更するものであったとしても、右定年制の定めには、次のとり合理性があるから、債権者がその適用を拒否することはできない。

イ 合体後の労働条件の統一化

本件合体に際し、朝日火災に所属していた従業員の労働条件と鉄道保険部に所属していた従業員の労働条件は一本化・統一化されていなかった。

そのため、合体後、債務者会社と訴外組合とは、従業員の労働条件について労使間交渉を継続し、次のとおり昭和四七年頃には、定年制を除き、個別の労働条件は、ほぼ一本化・統一化されるにいたった。

ロ 統一化の経過

(イ) 昭和四〇年九月 就業時間の統一化

(ロ) 昭和四二年九月 年次有給休暇・生理休暇等の統一化

(ハ) 昭和四三年四月 退職手当規程の統一化

(ニ) 同年一一月 賃金制度に関する統一化

(ホ) 昭和四五年一二月 昇類運営に関する統一化

(ヘ) 昭和四六年九月 保健・安全衛生に関する統一化

(ト) 同年一〇月 慶弔見舞金の贈与基準に関する統一化

(チ) 〃 社宅規程の統一化

(リ) 〃 業務上災害補償規定の統一化

(ヌ) 昭和四七年三月 賃金関係諸規定ならびに賞与支給に関する規定の統一化および休職の取扱の統一化

ハ 公平の原則からみた定年統一の必要性

旧鉄保プロパー社員と債務者会社プロパー社員との間で定年制を除く労働条件が統一化されたのち、定年についてのみ異なる取扱を継続することは、「一の企業体における一の取扱い」という公平の原則に違反するものであるから、定年制についても統一化を図る必要性があった。

ニ 経営危機による定年統一の必要性

(イ) 債務者は、昭和二六年に設立されたものであるが、新設会社であるところから「含み資産」が殆んどなくまた、営業効率も悪く、収益力が非常に脆弱だったため、創業以来永年いわゆる「慢性的赤字体質」から抜け出すことができなかった。そして、この状態は、昭和四〇年の本件合体後も続き、毎年度の業績は実質赤字を続け、僅かに昭和四六年度より昭和四八年度までの三か年についてのみ実質的な黒字決算をしたにとどまった。

なお、右「慢性的赤字体質」の主たる原因は、同業他社に比べて生産性が低いということにあった。すなわち、収入面を過去の実績推移からみると、従業員一人当たりの「元受収入保険料」の稼ぎ高が業界平均と比較して五〇パーセント以下の水準であったにもかかわらず、支出面の「社費」(人件費・物件費の合計)が業界平均の七〇パーセント以上の水準に達しており、このような収支不均衡の状態を続けてきたことが、事業収益の基調を不安定なものとしていた。加えて、「元受収入保険料」と並んで収入面での大きな柱である運用資産についてみても、従業員一人当たりにつき、業界平均の四〇パーセント以下しかないという状況が続いていた。

(ロ) 債務者会社は、昭和五二年度決算において、一七億七〇〇〇万円にのぼる赤字を計上して無配に転落し、経営危機に陥った。

(ハ) そこで債務者は、昭和四〇年二月の本件合体以来、定年制の統一化問題が労使間に唯一残された重要懸案事項であり、二本建ての定年制になっていること自体従業員の士気高揚と明るい職場秩序維持に悪影響を及ぼしていたことから、「新人事諸制度」(職能資格制度)、「新退職金制度」とともに、「定年制の統一化」を会社再建の重要な施策として位置付けたのである。

ホ 多数従業員及び訴外組合の同意

本件就業規則の「五七才定年昭和五八年四月一日実施」という内容については、訴外組合の内部に意見の対立はなく、組合内部で意見の対立が発生したのは、右内容につき労使が合意した後の同月一二・一三日の全国支部闘争委員会においてであって、その内容も「定年五七才」では一致しているが、代償措置、再雇用嘱託、経過措置等の細部事項についての対立でしかなかったのであり、しかも右対立も同年五月九日には最終的に妥結をみている。

ヘ 本件就業規則の定年制の水準

本件就業規則の定める五七才定年制の水準は、わが国産業界及び損害保険業界の実情に照らして低きに失するものということはできない。

ト 本件就業規則の内容の合理性

本件定年制の実施に伴ない、定年統一及び退職手当規定改定の代償金として、昭和五八年度新入社員等を除く従業員のほぼ全員に対し、一人平均一二万円が支払われるほか、債権者ら鉄道保険部出身の従業員で昭和五八年四月一日現在五〇才以上の者に対し一人一律三〇万円が加算して支払われることになっており(五〇才未満の者は一人一律一〇万円加算)、さらに、満五七才の定年後引続き勤務を希望し、かつ、心身ともに健康な者は原則として、満六〇才を限度として、特別社員として再雇用することにより、本件定年制の一律実施によって生ずる結果を緩和する方策も講じられている。

(2) 権利濫用

本件労働協約に本件特約が付されていたとしても、旧鉄保プロパー社員と債務者会社プロパー社員との定年制の統一化に関する労使交渉が妥結した結果、その協定化及び就業規則等の改訂が行われ、しかも、六三才定年制から五七才定年制となる対象者七一名のほぼ全員の者が五七才定年制及び原則六〇才までの特別社員再雇用制度に同意していることからすると、旧鉄保プロパー社員七一名中債権者外三名のみが右「五七才定年制」に不同意の態度を表明することは、合体に関する覚書等に基づき労働条件の一本化・統一化を進めてきた労使間、及び右「定年制の統一化」問題について様々な指導を行ってきた東京都地方労働委員会等の努力の結果を水泡に帰せしめるものであって、労使間の信義に反し、権利の濫用にあたり許されない。

三  疎明関係(略)

理由

一  申請理由(1)イは、当事者間に争いがない。

二1  同(1)ロは、当事者間に争いがない。

2  抗弁(1)ロは、当事者間に争いがない。

右認定事実によれば、労働基準法九二条一項により、本件就業規則は、法令又は当該事業場について適用される労働協約に反しない限り有効であることが明らかである。

3  抗弁(1)イは、当事者間に争いがない。

定年制に関する限り、債権者が勤務する事業場について適用される本件労働協約の内容は、本件就業規則の内容と一致していることが明らかである。

4  債権者は、本件労働協約には本件特約が付され、債権者の同意がない限り定年制の変更の効力が債権者に及ばないと主張する。

これは、労働協約で合意されている基準を上廻る個々の契約上の条件の効力を肯定するいわゆる有利原則を認めるべきであるとの主張にほかならないところ、有利原則を認めることは協約自治の本旨に照らして許されないと解するのが相当である。

そうすると、債権者の右主張(再抗弁(1))は、その余の点について判断するまでもなく失当であるといわざるを得ない。

三1  (証拠略)によれば、債権者主張再抗弁事実(2)イ(イ)が一応認められる。

2  同(2)イ(ロ)は、当事者間に争いがない。

3  右1、2の認定事実によれば、同(2)イ(ハ)が疎明される。

4(一)  債権者主張再抗弁事実(2)ロ(イ)のうち、鉄道保険部と債務者との間に昭和四〇年一月二七日「合体に関する覚書」が作成されたこと、鉄道保険部と債務者との同年二月一日に合体したことは当事者間に争いがない。

(二)  (証拠略)によれば、同(2)ロ(イ)のその余の事実が一応認められる。

5  (証拠略)によれば、同(2)ロ(ロ)が一応認められる。

6  成立に争いない(証拠略)によれば、同(2)ロ(ハ)が一応認められる。

7  右4ないし6の認定事実によれば、債権者主張再抗弁事実(2)ロ(ニ)が疎明される。

8  なお、債権者は、合体後の債務者会社において鉄道保険部出身従業員につき慣行による満六五才定年制が成立した旨主張するので検討する。

(一)  ところで、労使慣行が法的拘束力のある事実たる慣習として成立しているというためには、同種行為又は事実が反復継続されていること、当事者が明示的にこれによることを排除していないこと、当該慣行が企業社会一般に労働関係を規律する規範的な事実として明確に承認され、あるいは使用者及び従業員が一般に当然のこととして異議をとどめず、当該企業内で事実上の制度として確立しているものであることが必要であると解される。

(二)  (証拠略)によれば、債務者会社の従業員は、鉄道保険部(その前身を含む。)に採用されて本件合体により債務者会社従業員となったものとそれ以外の債務者会社プロパー社員とに分かれ、さらに前者は、国鉄永年退職者で鉄道保険部の従業員となったもの(以下「国鉄永退者」という。)とそれ以外のもの(以下「旧鉄保プロパー社員」という。)に分かれることが一応認められる。

(三)(1)  債権者主張再抗弁事実(2)ハのうち、鉄道保険部出身従業員の朝田蔀、丸谷巻枝、水本毅が満六五才で退職したことは、当事者間に争いがない。

(2)  そして、(証拠略)によれば、右(1)の三名は、債権者と同じく旧鉄保プロパー社員であることが一応認められる。

(四)  債権者は、旧鉄保プロパー社員についても定年を六五才とする定年制に関する労使慣行が成立した旨主張し、(証拠略)にはこれに副う部分がみられるけれども、これらは(証拠略)と対比して採用することができず、他に右主張事実を疎明するに足りる証拠はない。

(五)  従って、債権者の右主張は、失当である。

9  そうすると、債権者は、右7認定のとおり本件合体当時満六三才定年制の労働条件を有していたところ、前記二2認定のとおり本件就業規則の作成によって満五七才定年制が採用されたことにより一方的に不利益な労働条件を課せられたことが明らかである。

四1  新たな就業規則の作成又は変更によって、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を課することは、原則として、許されないと解すべきであるが、労働条件の集合的処理、殊にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されない(最高裁判所昭和四三年一二月二五日大法廷判決、民集二二巻一三号三四五九頁参照)。

そして、右にいう当該規則条項が合理的なものであるとは、当該就業規則の作成又は変更がその必要性及び内容の両面からみて、それによって労働者が被ることになる不利益の程度を考慮しても、なお当該労使関係における当該条項の法的規範性を是認できるだけの合理性を有するものであることをいうと解される。

特に賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである(最高裁判所昭和六三年二月一六日第三小法廷判決参照)。

2  債務者は、本件就業規則の定める本件五七才定年制の定めには合理性があるから、債権者がその適用を拒否しえない旨主張するので検討する。

(一)  (証拠略)によれば、債務者主張再々抗弁事実(1)イないしニが一応認められ、(証拠略)中右主張に副う部分は前掲各証拠と対比して採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  (証拠略)によれば、債務者主張再々抗弁事実(1)ホが一応認められる。

(三)  (証拠略)によれば、債務者主張再々抗弁事実ヘが一応認められる。

(四)  (証拠略)によれば、債務者主張再々抗弁事実(一)トが一応認められる。

(五)(1)  前記三1、2の認定事実によれば、債権者ら旧鉄保プロパー社員の定年は、本件就業規則制定以前においては満六三才であり、債権者は、前記二1認定のとおり昭和四年八月一一日生れであるから、満六三才に達する平成四年八月の翌年度すなわち平成五年六月末日まで勤務しうることが明らかである。

(2)  そこで、昭和六一年九月以降平成五年六月まで七年一〇月の間ボーナス、ベースアップや昇給がないものと仮定して昭和六一年七月分の給与月額四五五、二四六円(当事者間に争いがない。)によってその間に得べかりし給与総額を計算すると、約四二八〇万円となる。

(3)  次に、債権者が昭和六一年九月以降特別社員として満六〇才に達する平成元年八月まで三年間ボーナス、ベースアップなしで特別社員として勤務したと仮定してその間に得べかりし給与総額を計算すると、(証拠略)によって一応認められる特別社員の給与月額(前記四五五、二四六円の六〇%とみる)二七万円の三六ケ月分、合計九七二万円となる。

(4)  そこで、右(2)の四二八〇万円より右(3)の九七二万円を控除すると、残額は金三三〇八万円となる。

(5)  右金三三〇八万円と前記(四)認定の代償金四二万円を対比すると、債権者が取得しうる代償金は余りにも少額にすぎるといわざるを得ず、前記認定のような本件にあらわれた諸般の事情を斟酌しても、到底代償金として相当な金額であるということはできない。

(六)  このようにみてくると、本件就業規則の定める本件五七才定年制の定めに合理性があるとの債務者主張の再々抗弁を認めるに足りる疎明がないから、右主張は失当である。

3  なお、債務者主張権利濫用の再々抗弁の主張は、主張自体失当と解する。

4  従って、債権者は、満六三才に達する平成四年八月一一日まで、債務者会社の従業員たる地位を有することが明らかである。

五1  債権者は、債務者主張抗弁(2)イの事実を明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

2  そして、債務者は、高田判決後に債務者会社を定年退職した者にとっては、原決定に基づく債権者の地位保全及び賃金仮払は、業務に従事せずに高額の給付を受ける点において法的正義を逸脱し、不公平感を伴ない、ひいては債務者会社従業員全体の士気に影響し、債務者が異常の損害を被っている旨特別事情の存在を主張するので検討する。

3  しかし、右主張事実の存在を一応認めるに足りる疎明はない。

4  また、高田判決は、債権者を当事者としていないから、当然のことながら同判決の効力は債権者に及ばないし、かつ同判決は未だ債務者の勝訴に確定したわけでもない。

5  さらに原決定による債権者の地位保全や賃金仮払は、被保全権利と保全の必要性の存在が疎明される限り発令されるという仮処分制度の一般的運用の結果にすぎない。

6  そうすると、仮に債務者主張のような従業員の士気低下があるとしても、それによる損害は、原決定の発令執行と相当因果関係のある損害であるということはできない。

7  以上の次第であるから、債務者の特別事情による取消の抗弁は失当である。

六1  債務者は、債権者が平成元年八月一一日満六〇才に達し月額約二〇万円の厚生年金受給資格を取得し、債権者の妻もすでに満六〇年に対し月額数万円の国民年金受給資格を取得したから、債権者の本件仮処分申請については保全の必要性が消滅した旨主張するので検討する。

2  しかし、厚生年金保険法四二条によれば、老令厚生年金は、被保険者期間を有する者が六五才に達したときに、その者に支給されることになっているところ、債権者は、未だ六五才になっていないので、受給資格を取得していない。

3  (証拠略)によれば、一定の要件を充足していれば特別措置として六〇才から六五才までの間特別支給を受けられることになっているけれども、その場合には退職しているか、退職していないときは月収二〇万円以下であることが条件となっていることが一応認められる。

そうすると、債権者は、本件において退職の効力を争っているから退職したとの条件を充足することができないので、結局債権者は、厚生年金の受給資格を有しないものといわなければならない。

4  債務者主張の妻の国民年金受給については、これを疎明するに足りる証拠はない。

5  以上の次第であるから、債務者主張の保全の必要性消滅の抗弁は失当である。

七  申請理由(5)の事実は、当事者間に争いがない。

八1  同(2)の事実は、当事者間に争いがない。

2  (証拠略)によれば、債権者の昭和六一年八月直前の年収は約七八〇万円(平均月額約六五万円)、特別社員となった場合の三年間の年収はその六割に相当する約七八(ママ)〇万円(平均月額約三九万円)であることが一応認められる。

3  (証拠略)によれば、最近の金融機関の調査に基づく六〇才以上の高令者の生計費月額が三〇万円ないし三五万円であることが一応認められる。

4  債権者が妻と債務者の社宅に同居していることは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、債権者は、債務者から支給を受ける給与を唯一の収入源とし、妻を扶養するほか、岡山にひとりで居住している母を扶養していることが一応認められる。

5  以上の各認定事実によれば、債権者の賃金仮払については、月額三五万円の限度において保全の必要性があり、その余については保全の必要性がないと認めるのが相当である。

6  なお弁論の全趣旨によれば、債権者は、債務者会社の従業員として健康保険法上の療養の給付を受けていることが一応認められる。

7  申請理由(3)の事実は、当事者間に争いがない。

8  右4、6、7の認定事実によれば、地位保全についても保全の必要性が認められる。

九  結論

以上の次第であって、債権者の本件仮処分申請は、債権者が債務者に対し労働契約上の権利を有することを仮に定め、債務者は債権者に対し昭和六一年八月一一日から平成四年八月一一日または本案の第一審判決言渡の日のいずれか早い日まで毎月二〇日限り金三五万円あてを仮に支払うよう命ずる限度において理由があるから認容すべきであり、その余は失当であるから却下すべきである。

よって、これと異なる原決定を右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法七五六条の二を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 辰巳和男)

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